賃料増額トラブルの実情と法的対応策―「相場に合わせて家賃を上げたい」は投資判断として正しいか―

不動産投資

近年、日本の不動産市場、特に都市部において、賃料増額を検討する不動産オーナーからの相談が急増しています。この背景には、不動産経営を取り巻くコスト構造の劇的な変化があります。具体的には、修繕費や管理費、人件費といった運営コストの継続的な上昇に加え、固定資産税や火災保険料などの公租公課・保険料の増加が、オーナーの収益を圧迫しています。結果として、物件の実質利回りが低下し、従来の賃料水準では投資判断として成り立たなくなりつつあるのです。このような状況下で、賃料増額は、低下した収益性を回復し、資産価値を維持するための合理的な「経営判断」であると言えます。しかしながら、入居者への賃料増額の申し入れは、往々にして感情的な対立や法的なトラブルに直結しやすいテーマでもあります。本稿では、投資家が冷静に、そして戦略的にこの問題に対処するための法的根拠と実務上の対応策を解説します。

賃料増額は「オーナーの都合」ではない

賃料増額請求は、オーナーの個人的な都合や感情論に基づくものではなく、借地借家法第32条という明確な法的根拠に基づき、すべての賃貸人に認められた正当な権利です [1]。(借賃増減請求権) 第三十二条 建物の借賃が、土地若しくは建物に対する租税その他の負担の増減により、土地若しくは建物の価格の上昇若しくは低下その他の経済事情の変動により、又は近傍同種の建物の借賃に比較して不相当となったときは、契約の条件にかかわらず、当事者は、将来に向かって建物の借賃の額の増減を請求することができる。この条文が示す通り、賃料の増減を判断する要素は多岐にわたります。

判断要素具体的な内容
租税その他の負担の増減固定資産税、都市計画税、管理費、修繕費などの増減
土地・建物価格の変動不動産市場全体の価格変動、再調達価格の上昇・低下
経済事情の変動物価や金利の変動、社会経済情勢の変化
近隣同種物件との比較周辺の類似物件の賃料水準(相場)との乖離

特に、長期間にわたり賃料が据え置かれている場合、「近隣相場より著しく低い賃料が放置されている状態こそが不正常である」と捉えるのが、投資・経営的な視点です。賃料増額請求は、この不正常な状態を是正し、適正な収益性を確保するための権利行使に他なりません。

問題は「上げてよいか」ではなく「いくら上げられるか」

賃料増額請求において、法的な権利の有無は借地借家法32条により認められています。したがって、実務上の真の争点は**「賃料を上げてよいか」ではなく、「適正賃料の水準はいくらであるか」**という点に集約されます。この「適正賃料」を客観的に算定する上で、不動産鑑定士による賃料鑑定が極めて重要な意味を持ちます。裁判所は、当事者間の感情的な主張ではなく、客観的な「数字と資料」に基づいて判断を下すためです。裁判所が適正賃料を判断する際に重視する主な要素は以下の通りです。1.鑑定評価: 不動産鑑定士が作成した、専門的かつ客観的な賃料算定書。2.近隣相場: 類似物件の賃料データや、市場における賃料の動向。3.物件の個別事情: 築年数、設備、階数、方角、管理状況など、当該物件固有の価値を左右する要素。賃料増額交渉は、感情論が通用せず、「数字と資料が全て」であるという認識を持つことが、投資家にとって最も重要です。

賃料増額の手続フロー

賃料増額の手続きは、原則として以下の3つのステップを経て進行します。

① 任意交渉

まず、オーナー(または管理会社)から入居者に対し、賃料増額の根拠と改定後の賃料額を提示し、話し合いによる合意を目指します。合意に至った場合は、必ず改定内容を記載した合意書や覚書を書面化し、署名・捺印を得て終了となります。この段階で合意できれば、最も迅速かつ低コストで問題を解決できます。

② 調停

任意交渉で合意に至らない場合、オーナーは裁判所に賃料増額請求調停を申し立てる必要があります。訴訟の前に調停を経ることが義務付けられています(調停前置主義)。調停では、裁判官と調停委員(一般市民から選ばれた専門的知見を持つ者)が間に入り、双方の主張を聞きながら、妥当な落としどころを探ります。調停委員は、法的な観点だけでなく、実務的な観点からも解決を促すため、この段階で和解が成立することも少なくありません。

③ 訴訟

調停でも合意に至らなかった場合、最終的に賃料増額請求訴訟を提起することになります。訴訟では、不動産鑑定の結果が勝敗を左右する決定的な証拠となります。裁判所は、当事者からの鑑定申出や、裁判所自身の職権による鑑定(裁判所鑑定)の結果を最も重視し、適正賃料を認定します。しかし、この訴訟手続きには大きなコストが伴います。弁護士費用、鑑定費用、裁判費用を合計すると、数十万円から100万円超になるケースも珍しくありません。特に、月額賃料が数万円程度の居住用賃貸においては、「理論上は勝てても、訴訟コストを回収できず、投資効率が合わない」という場面が多く発生することを、投資家は冷静に認識しておく必要があります。

居住用賃貸は「法」より「交渉力」が支配する世界

前述の通り、賃料増額の法的権利は明確に存在しますが、特に居住用賃貸物件においては、訴訟コストが回収できないという構造的な問題が、オーナーの権利行使を妨げます。月額数千円〜1万円程度の増額を求めて、100万円近い費用をかけて訴訟に臨むことは、「権利はあるが、使うと赤字になる可能性がある」という現実を意味します。このため、多くのケースでは、法廷での決着ではなく、交渉の場での「根比べ」となりがちです。この現実を踏まえれば、居住用賃貸における賃料増額は、法廷戦略ではなく、いかに相手の納得感を引き出し、円満な合意に導くかという交渉設計が極めて重要であると言えます。

なぜ今、賃料増額が避けて通れないのか

賃料増額が単なる「オーナーのわがまま」ではなく、経営上の必須課題となっている背景には、複数の要因が複合的に絡み合っています。

要因投資家への影響
修繕費・管理費・人件費の上昇実質的な運営コストが増加し、キャッシュフローを圧迫
固定資産税・保険料の増加公租公課やリスクヘッジコストが増加し、利回り低下を加速
新築・リノベ物件の賃料上昇市場全体の賃料水準が上昇し、既存物件との乖離が拡大
新規募集賃料と既存契約賃料の乖離既存入居者の賃料が市場相場から大きく遅れ、収益機会を逸失

これらの要因の中でも、特に投資家が注目すべきは「同一建物内での賃料差拡大」です。新規募集時の賃料は市場相場に合わせて設定できるため高水準である一方、既存入居者の賃料は長年の据え置きにより低水準のままとなり、同じ建物内で大きな賃料差が生じます。この賃料差は、単なる感情問題ではなく、資産価値・収益性の問題です。賃料が低い部屋が多いほど、物件全体の収益性が低下し、結果として売却時の評価額(収益還元法に基づく)にも悪影響を及ぼします。賃料増額は、この資産価値の毀損を防ぐための防衛策なのです。

投資家が取るべき現実的な対応策

訴訟リスクとコストを回避しつつ、賃料の適正化を図るために、投資家が取るべき現実的な対応策は以下の通りです。1.必ず相場データを用意する: 交渉の根拠として、近隣の類似物件の募集賃料や成約事例といった客観的な相場データを収集し、準備しておくことが不可欠です。感情論ではなく、数字で「不相当な状態」を証明できるようにします。2.交渉は文書(内容証明等)で行う: 口頭での交渉は水掛け論になりがちです。賃料増額の意思表示は、内容証明郵便などの書面で行い、法的な証拠能力を確保します。これにより、交渉の長期化を防ぎ、オーナーの真剣度を示すことができます。3.条件交渉は多層的に設計する: 賃料本体の増額が難しい場合でも、更新料、共益費、駐車場料金など、賃貸借契約に含まれる他の金銭的条件の改定を交渉のテーブルに乗せます。これにより、賃料本体の増額に固執せず、トータルでの収益改善を目指すことができます。賃料増額交渉が困難で、かつ現在の賃料水準が投資判断として不合理であると判断される場合、更新条件の変更(例:更新料の増額)や、退去を促した上での再募集という選択肢も、合理的な投資判断として存在します。法的な権利行使に固執するよりも、収益の最大化という視点から、最も効率的な道を選ぶことが重要です。

まとめ:賃料は「交渉」ではなく「経営判断」

賃料増額トラブルは、オーナーと入居者双方にとってストレスの多いテーマですが、投資家はこれを感情論で消耗すべきテーマではないと認識すべきです。賃料の適正化は、収益、コスト、そして資産価値を最適化するための、極めて重要な経営判断です。数字に基づき、冷静に、そして粘り強く交渉設計を行うことが、トラブルを最小限に抑え、最大の効果を得るための鍵となります。不動産投資における賃料増額や、その他のトラブル・お悩みについても、専門家(弁護士、不動産鑑定士、経験豊富な管理会社など)に早めに相談することが、不要なリスクを回避し、安定した不動産経営を続けるための最善策となります。

参考情報

本記事は、以下の記事を参考に執筆しました。[1] 【不動産投資の落とし穴】 賃料増額トラブルの実情と法的対応策 「相場に合わせて家賃を上げたい」–そこから始まるトラブル (不動産投資の健美家) https://www.kenbiya.com/ar/ns/jiji/legal_knowledge/9579.html